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知財よもやま話

2015.03.16

【知財よもやま話】 第4話 知財との係わり

知財との係わり
知財よもやま話 第4話

寒河江孝允

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序章 知財は神代の昔から

1.旧約聖書創世記に、神は人間に言葉を与えたとある。言語は、人間同士のコミュニケーションの手段である。言葉、文字は人類が創造、考案した最も偉大な知的財産であろう。

2.人類の誕生、200万年前、石器を発明した。1万年前に日本で、土器が創られた。紀元前において、青銅器、鉄器などの文明が発生している。これらも全て人類の知的創造に違いない。

3.13世紀末、イタリアで眼鏡が発明された。1443年ヴェネチアで発明が認められた、1474年世界最古の成文法「発明者条例」が成立したと言われる。イギリスでは1624年「専売条例」が制定された。アメリカで憲法に発明保護の条文が掲げてある(米国憲法第1条8項8節)。アメリカの歴代大統領は、様々な発明をし特許を得ている。例えば初代大統領ジョージ・ワシントン「たる型の鋤」、トーマス・ジェファーソン「回転椅子」、最も有名なのはエブラハム・リンカーンの「航行する船」の特許(米国特許第6469号、1849年)がある。リンカーンは特許発明の奨励の演説を行って、産業発展を促した。

  パテントの語源は、ラテン語のpatentesと言われ、公開するという意味である。その後中世ヨーロッパにおいて、letters patentという言葉が作られた。

4.わが国では、高橋是清(初代の専売特許所長―長官)が中心となって、1884年商標条例(第1号商標、1885年)、1885年専売特許条例(1885年「堀田式錆止塗料とその塗法」に第1号特許が認められた)、1888年意匠条例(1889年「織物縞」の意匠が第1号として認められた)が制定された。

第1章 幼年期から中学校の時代

1.発明家が親族にいた

  さて、私と知財とのかかわりであるが、親族の中に発明家がいた。彼(ら)は、①農機具の発明、②米の新品種(農林○○号)(今で言う、植物新品種としての、種苗育成者権)の育成を行ったという。

2.祖父が変な考案者であった

  発明は、便利さを追求することが動機であるが、他方ものぐさ、めんどうくささからの開放を目指すことが動機となる場合がある。

  祖父は、寒い夜、寝ながらにして布団に手を入れたまま、新聞をいかに読むかということで変な道具を考案していたのを覚えている。まさにものぐさの求める考案であった。

3.新しもの好きの父

  父は新しもの好きの面があり、周囲の誰よりも早く「オート三輪」を手に入れていた。私は、父のいない隙に、こっそりオート三輪を動かしたものの、柱に衝突させてしまった。大変なことになったと思ったが、父に特にしかりつけられた記憶はない。ただ、冷や汗の気持ちは今でも忘れられないところである。

4.中学時代において、理科の先生が教室に入ってくるや否や、黒板に大きな文字で、「?」「ハテナ」と書いた。理科・科学の真髄は、まさにここにありということを、単刀直入に現したものである。なかなか、印象の深い先生であった。今でも、存命のことと伺っているので、100歳に近いのではないか。この好奇心の勧め、Curiousnessは、私の人生にも大きな影響を与えたのではないか、と思う。

第2章 進路について

1.大学は、法学部(文系)に入ることになった。地元の政治家で、尊敬できる人物がいたので、その影響が大きいかもしれない。また、親族に地方政治家が多くいたことも(父、祖父も含め)、環境としては、影響があったかも知れない(後述の空白の10年の時代)。

  さて、就職はどうするか、普通の学生並に色々悩んだものである。結局、結論を得る前に卒業が先に来て、とりあえず法曹資格を得て、それから社会で何をするか、ということで悩みは残ったままであった。

2.司法研修所の終了時点で、まだ、任官するのかしないのかなど悩んでいた。地元の先輩が心配して、弁護士をしている山形の先輩のところへ紹介するので、行ってみないかといわれた。そこで、お邪魔した大先輩が、田倉整先生であり、結局ここに「いそ弁」(居候弁護士から来たという説がある)として弁護士の道を歩むことになった。後で聞いた話であるが、同期の皆さんは早々と事務所訪問をしたりして、就職先を決めていたらしいが、私は全くそのような情報に接することはなかった、のんびりしていたのであろう。

3.田倉法律事務所で、知財専門の業務をしているということがはっきり分かったのは、就職した後であった。様々な知財事件に接したが、特に拒絶反応や嫌なこともなかったので、どんどんこの道に入り込んでいた。思えば、幼少期の様々な経験、環境の中で、理系の内容に拒絶反応はなかったのであろう。振り返ってみれば、このような経験とチャンスを与えていただいた先輩の方々に感謝をするのみである。

第3章 空白の10年間

1.平成5年から足掛け10年くらいの間、私は政治活動に集中した。折りしも、細川政権の誕生の頃であり、日本の政治が大きく変革の梶をとろうとした頃である。私の、好奇心や、進取の精神が政治の面に導かれたものである。その後、小泉政権の時まで、国政に何度か挑戦した。

2.ところが、政治の変動と連動して、この時期に知的財産法の実務が大きな変動をした時期でもあったのである。

   ・最高裁平成10年2月24日判決(均等論)
   ・最高裁平成12年4月11日判決(キルビー判決)

  等等、これらの重要な知財判決の時期に、知財司法の実務から完全に隔離され、立ち会うことができなかった。自ら望んだものとは言え、人生の選択は、厳しいものがある次第である。

第4章 知財司法実務に復帰

1.結局、知財司法の実務に復帰することになったのであるが、10年間の法律実務の空白は致命的な打撃である。

  よく言われることであるが、実務の空白を埋める、取り戻すには、その空白の期間と同じ時間がかかるものである。

  私は、知財司法の実務感覚を取り戻すために、ひたすら、知財実務の勉強を再開した。弁理士会のパテント誌などを始めとして、小論文(勿論、内容は拙文、忸怩たるものである)を沢山書き、投稿することになった。これらは、むしろ自らの勉強の結果を公にすることにより、自分自身の研鑽を目的とするものであった。

  復帰してから10年くらい経て、ようやく、元の知財法曹実務家としての自信、安定性が得られるようになった。

2.政治運動は、金銭的な面でも、大変な高額の社会授業料を伴ったものであるが、それ相応の様々な経験や、人脈の広がりなど得るものが多くあったことも確かである。

  このような経験が、その後の知財実務の処理においても、色々と役立っていると思う。「転んでもただでは起きない」という根性も培われたかもしれない。

第5章 締めくくりの章として、先輩の言葉「人生において、誰しも最低3回のチャンスがある」

1.ある先輩から、「人生において、誰しも最低3回のチャンスがある」と教えられた。

  含蓄のある格言である。

  そのチャンスのあるのが、10代、20代、30代の人もいるだろうし、70代、80代、90代の人もあるかもしれない、人様々である。

  チャンスが目の前を通り過ぎても、気がつかなければ、仕方がない。よく、「果報は寝て待て」ともいわれるが、チャンスは、やはり、積極的に掴みに行かなければならないかもしれない。その為には、やはり不断の努力が大切なのであろう。イチロー、錦織、羽生、葛西、等等、世界で活躍している選手は、人一倍、人の出来ない努力、鍛錬を黙々としているようである。

 

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