営業秘密官民フォーラムメールマガジン掲載コラム 第69回
営業秘密侵害罪について無罪とした愛知製鋼事件判決の検討
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福岡大学法学部講師 平澤卓人
PDF版ダウンロード:[営業秘密官民フォーラムメールマガジン掲載コラム] 第69回 営業秘密侵害罪について無罪とした愛知製鋼事件判決の検討
第1 はじめに
本稿では、名古屋地判令和4.3.18平成29(わ)427 [愛知製鋼磁気センサ]について検討を行う。同判決は、営業秘密侵害罪について無罪判決を言い渡しており、多くの報道がなされるなど注目を集めている。その説示については、検討すべき点も多くあるように思われる。
第2 事案の概要
裁判所は以下の事実を認定している。
被告人とされたX1、平成22年6月から平成24年6月まで、Y社のセンサ事業を所管する専務取締役の地位にあったが、同月、専務取締役を退任し、同月から平成25年6月まで、Y社の技監の地位にあった。被告人とされたX2は、平成24年6月から平成25年12月まで、Y社の生技・製造本部第3生産技術部の部長の地位にあった。
問題となったのは、平成25年4月9日、X1とX2がA社従業員のBに対しホワイトボードでワイヤ整列行程を図示する方法で説明したというもので、これがX1、X2のそれぞれの任務に背いてY社の営業秘密を不正の利益を得る目的で開示したものとして起訴されたものである(不正競争防止法21条1項5号に基づくものと考えられる)。
Y社は、平成12年11月頃、基板上にアモルファスワイヤを整列させることのできるワイヤ整列装置1号機を開発した。その際、X1はY社の技術本部電子・磁性部長であり、装置の開発の責任者であった。その後Y社は、平成15年12月ころ、同2号機を開発し、平成18年10月ころ3号機を開発していた。平成25年4月9日当時、Y社では3号機を工場で稼働させていた。
X1は、専務取締役退任後の平成24年9月に別会社Z社を設立していた。X1は平成24年12月にIに対し試作機の見積依頼を行った。平成25年2月、Y社の常務取締役(当時)がIに対し見積依頼はY社の正式なものではないので、見積りを出すのはやめてほしいなどと言った。Iは平成25年3月1日、X1X2からの見積依頼を断った。
なお、X1は、平成25年2月5日、関係者に対し、「ワイヤ関連の設備の仕様を決定、いま見積もり中です。これができれば、Y社とは関係なくMI素子の開発が可能となります。」などと記載したメールを送信していた。
被告人X2は、平成25年3月5日、A社従業員Bに対し、アモルファスワイヤを並べる装置を作れないか、今までよりもセンサの感度をアップさせたい、小さいものを作りたい、などと相談した。そして、X2は、4月1日、Bに対し、ワイヤ張り試験装置の件について一度打ち合わせをお願いする旨のメールを送信した。そのうえで、4月9日の打合せで、X1X2が、Bに対し、製作を依頼する装置の要求仕様について説明し、ホワイトボードでワイヤ整列行程を図示している。ただし、X1X2は、Y社のワイヤ整列装置に備わっているCCDカメラの活用、モーターの回転方法、磁石の配置等については説明していない。また、同日の打ち合わせの際、X1は、Bに対し,装置の発注者がY社になるか、新たにベンチャー会社を作って、G大学に納入するかの2択が考えられると言った。
Bは、同打ち合わせ後、平成25年5月3日付でXらから依頼を受けたワイヤ整列装置に関する「御見積書」「見積仕様書」を作成したが、名宛人はいずれもY社とされていた。その後、Bは、同年5月17日付で名宛人をZ社とするワイヤ整列装置の「見積仕様書」を作成した。A社は、平成25年11月ころ、完成したワイヤ整列装置をZ社に納品し、同装置はG大学に設置された。
なお、X2は、平成26年2月頃、Z社との間で、平成25年4月12日付けでワイヤ整列装置の開発に関する設計委託契約を締結した。X2は、Z社から、平成26年1月から3月までの間に、合計200万円を受け取った。
第3 判決の概要
1 非公知性
「…被告人両名が説明した情報は、アモルファスワイヤを基板上に整列させる工程に関するものではあるが、Y社のワイヤ整列装置の機能・構造、同装置等を用いてアモルファスワイヤを基板上に整列させる工程と大きく異なる部分がある。また、本件実開示情報は、アモルファスワイヤの特性を踏まえて基板上にワイヤを精密に並べるための工夫がそぎ落とされ、余りにも抽象化、一般化されすぎていて、一連一体の工程として見ても、ありふれた方法を選択して単に組み合わせたものにとどまるので、一般的には知られておらず又は容易に知ることができないとはいえない。そうすると、本件実開示情報は、非公知性があるとは認められない。」
「また、本件実開示情報は、アモルファスワイヤの特性を踏まえて基板上にワイヤを精密に並べるために重要となるはずの情報がそぎ落とされ、余りにも抽象化、一般化されすぎていて、一連一体の工程として見ても、ありふれた方法を選択して単に組み合わせたものにとどまるので、一般的には知られておらず又は容易に知ることができないとはいえない。」
「…複数の情報の総体としての情報については、なお、当該情報が非公知である、というためには、組合せの容易性、取得に要する時間や資金等のコスト等を考慮し、営業秘密保有者の管理下以外で一般的に入手できるかどうかによって判断されるべきであるが、本件についていえば、本件実開示情報は、真の工夫に関する情報がそぎ落とされ、組合せとして見ても、一般的には知られておらず又は容易に知ることができないとはいえない。」
「ある工程に関する説明内容と被侵害者の保有する工程に関する営業秘密を比較する場合、真実、被侵害者の保有する営業秘密とは異なる情報であったとしても、その課題、目標が共通のものであると、両者を抽象化、一般化していくと、いずれかの段階で、何らかの共通部分を見いだすことが可能になる場合がほとんどである。アモルファスワイヤを基板上に並べる、という課題、目標についていえば、ワイヤがリールに巻かれて販売されているのであるから、通常の工程としては、リールから引き出すなどしてワイヤを直線状にすることが必要になる。また、基板上に並べる場所とワイヤの位置合わせも必要になる。さらに、ワイヤを切断することも必要になる。そして、2本以上のワイヤを基板上に並べるのであれば、そのような工程を機械的に繰り返す必要がある。これらの工程が必要になること自体は、容易に知ることができ、工程の内容も、抽象化、一般化されていくと、ありふれた工程に近づいていき、一般的に知られているか容易に知ることができる内容に成り下がってしまう。」
2 被告人らの故意の有無
「仮に、本件実開示情報がY社の営業秘密であると認められるという見解を採り、被告人両名の行為が客観的には営業秘密開示行為に該当するという見解を採ったとしても(この仮定は、当裁判所の見解ではない。)、被告人両名において、本件打合せでBに説明した情報について、Y社の営業秘密に該当しないと考えていた疑いが残り、そのように考えたことについて、相当な理由があるといえることなどからすると、被告人両名について、故意責任を問うことはできない。」
「すなわち、被告人X1の公判供述のうち、本件打合せで説明した情報について、Y社の営業秘密に該当しないと考えていたという部分は、1月25日メモで裏付けられている。というのも、被告人X1は、1月25日メモにおいて、「研究用ワイヤ張り機は、公知情報をベースに発想を変えた装置である」などとA社に発注する装置の位置付けを整理している。本件打合せにおける被告人両名によるBに対する説明内容も、概ね1月25日メモの整理に従った内容となっており、被告人両名は、同メモにおいて、「Y社しか知りえない情報」と記載されている内容についてほとんど開示していない…。」
「また、Y社は、検察官主張工程あるいは本件実開示情報のような極めて抽象化、一般化された情報についてまで、営業秘密として管理する意思を明確に示していたとは言い難い。すなわち、Y社は、後記のとおりワイヤ整列装置そのものを秘密管理していたとはいえるものの、C社との間で締結した1号機に関する秘密保持契約は、契約期間が10年間とされていて、契約期間延長の申出も可能であったのに、同申出をしていなかった。また、Y社は、平成13年9月、本件報告書により、P5に対し、1号機の概括的な工程を報告していた。そして、Y社は、上記抽象化、一般化された情報についてまで、当該情報が記載された文書に秘密であることを表示するなどして、一般情報ではないと明示して管理するなどの措置を講じていたわけでもない。」
「被告人P2についても、被告人P1と同様、本件打合せで説明した情報について、Y社の営業秘密に該当しないと考えていた疑いが残り、そのように考えたことについて、相当な理由があるといえる。仮に、被告人両名の行為が客観的には営業秘密開示行為に該当するという見解を採ったとしても、被告人P2について、故意責任を問うことはできない。」
3 秘密管理性
「Y社は、1号機ないし3号機をクリーンルーム内に保管し、特定の認証カードを所持する者以外の立入りを制限する措置を講じていたのであるから、「営業秘密管理指針」に照らしても、1号機ないし3号機の秘密管理性が失われるような問題があるとまではいえない。」
「確かに、Y社は、ワイヤ整列装置に関する技術情報について、「機密管理規程」に従った機密管理措置を執っていたわけではない。しかし、Y社は、本件の約2か月前にも、J社との間で、ワイヤ整列装置に関する技術情報について秘密保持契約を締結するなどしていた。また、その技術情報が化体した1号機ないし3号機を、機密管理していた。そうすると、仮に、本件実開示情報に非公知性が認められるという見解を採るのであれば、Y社において、本件実開示情報を秘密保持する意思があったと認められる。」
4 不正の利益を得る目的
「…被告人両名が平成24年12月頃から平成25年2月頃までの間にC社に対しワイヤ整列装置の試作機の製作依頼をしたのは、Y社による正規の依頼としてではなかったと認められる。また、被告人両名は、C社から製作依頼を断られると、A社に対し同様の製作依頼をしており、A社に対する製作依頼もY社による正規の依頼としてではなかったと認められる。そうすると、仮に、本件実開示情報がY社の営業秘密に該当するという見解を採るのであれば、被告人両名がそれを用いてY社の了解なくワイヤ整列装置の試作機を製作しようとしたことになるから、被告人両名に、不正の利益を得る目的があったと認められる。被告人X2が、Y社退職前に200万円もの高額の現金をZ社から受け取っていることも、不正の利益を得る目的があったこととよく整合する。」
第4 検討
1 非公知性の判断について
本判決は、「本件実開示情報は、アモルファスワイヤの特性を踏まえて基板上にワイヤを精密に並べるための工夫がそぎ落とされ、余りにも抽象化、一般化されすぎていて、一連一体の工程として見ても、ありふれた方法を選択して単に組み合わせたものにとどまるので、一般的には知られておらず又は容易に知ることができないとはいえない」として、非公知性の要件を満たさないと判断した。
過去の民事裁判の判決を見ると、権利者の情報のうち、具体的な部分を捨象し、抽象的な部分のみを用いる場合には、営業秘密を「使用」していないとして侵害を否定したものがある(ソースコードのうち利用されたのが利用されたのが「ロジック(データベース上の情報の選択、処理、出力の各手順)」であった事案について、大阪地判平成25.7.16判時2264号94頁 [業務パッケージソフトウェア])。他方で、本判決のように、共通する部分が非公知性・有用性を欠くとして「営業秘密」に該当しないとするものもある(共通部分はソースコードの変数定義部分のみと認定された事案について、知財高判令和1.8.21金商1580号24頁 [ソースコードの変数定義部分])。また、侵害を認めつつ救済手段における調整を行ったものもある(利用されたのが、案件管理システムの設計思想その他理念的・抽象的というべき部分が中心であったものと推察されるとして、差止請求及び廃棄請求は認めず、損害賠償についても不正競争防止法5条1項及び2項の適用を否定した大阪地判令和2.10.1平成28(ワ)4029 [エディオン案件管理システム情報])[1]。
本判決は、Xらがホワイトボードに記した情報のうち検察官主張工程と共通する部分である「本件実開示情報」に着目し、同情報が「営業秘密」に該当するか検討し、非公知性の要件を否定している。
本来は、開示又は使用された情報ではなく、営業秘密保有者の保有する情報のうち検察官が特定したものについて、「営業秘密」該当性が検討されたうえで[2]、実際に開示された情報がそれと異なるのであれば別途「使用」「開示」に該当するか検討されるべきと思われる[3]。もっとも、実際に開示された情報が非公知性の要件にあてはめるとこれを充たさない場合に、営業秘密の保護がパブリック・ドメインに及ぶことがないよう「開示」要件を充足しないとして侵害を否定するというのは十分あり得るように思える[4]。
次に、重要なのは、どのような場合に非公知性が否定されかである。本判決は、「複数の情報の総体としての情報については、なお、当該情報が非公知である、というためには、組合せの容易性、取得に要する時間や資金等のコスト等を考慮し、営業秘密保有者の管理下以外で一般的に入手できるかどうかによって判断されるべきである」としている[5]。確かに、営業秘密保有者の管理下以外で一般的に入手できる情報であれば、そのような情報によって他の競業者に対し優位に立つものではない以上、不正競争防止法で保護を認める必要性はないのであるから、一般論としては問題ないと考えられる。もっとも、入手のためにある程度の時間や費用を要する情報は、これを取得することで費用や労力を節約できることから、非公知性を認め不正競争防止法の保護を肯定すべきであろう[6]。したがって、少なくとも通常の民事事件では、入手のための時間や労力をあまり高く設定すべきではないように思われる。このように解しても、多くの費用や労力を要せず入手可能な情報であれば、差止請求を否定し賠償額での調整を図ることが可能である[7]。他方で、刑事事件についてはこのような柔軟な処理が困難であるという問題があろう。
2 故意の要件
本判決は、①被告人P1の公判供述においてY社の営業秘密に該当しないと考えていたという部分が「研究用ワイヤ張り機は、公知情報をベースに発想を変えた装置である」とのメモで裏付けられ、また、被告人両名が同メモにおいて、「Y社しか知りえない情報」と記載されている内容についてほとんど開示していないことに加え、②Y社が1号機に関する秘密保持契約について延長の申し出をしていないことや抽象化、一般化された情報についてまで、当該情報が記載された文書に秘密であることを表示するなどしていないことから、検察官主張工程あるいは本件実開示情報のような極めて抽象化、一般化された情報についてまで、営業秘密として管理する意思を明確に示していたとは言い難いことも考慮して、仮に営業秘密性が肯定されるとしても被告人らの故意責任は否定されるとした。
営業秘密侵害罪について故意の要件を否定した過去の判決は見当たらず、この点でも先例的意義を有する。もっとも、その説示内容には疑問も残る。
故意における事実認識の対象は、構成要件の客観的要素にあたる事実のすべてとされる[8]。そうすると、秘密管理性、非公知性や有用性を基礎付ける事実などが認識の対象となるはずである。過去の判決でも、「(当該情報の)秘密管理性、有用性及び非公知性を基礎付ける事実関係の核心部分については、当然に認識、理解していた」として故意責任を認める判決があった(横浜地判令和3.7.7平成30(わ)1931・平成31(わ)57 [光ファイバー測定治具設計図][9])。
本判決のうち、「研究用ワイヤ張り機は、公知情報をベースに発想を変えた装置である」とのメモや、「Y社しか知りえない情報」と記載されたものをほとんど開示していないという事実は、非公知性又は有用性を基礎付ける事実に関するものと位置付けることができるかもしれない。しかし、被告人のY社の営業秘密に該当しないと考えていた旨の公判供述については、あてはめの錯誤の問題であり、故意が阻却されない法律の錯誤(刑法38条3項)の問題のようにも思える。
また、②の「検察官主張工程あるいは本件実開示情報のような極めて抽象化、一般化された情報についてまで、営業秘密として管理する意思を明確に示していたとは言い難い」という点は、被告人らの認識を問題とするものなのか不明である。仮に、秘密保持契約について延長の申し出をしていないことや抽象化、一般化された情報について秘密である旨の表示をしていないことを被告人らが認識し、営業秘密ではないと考えたとしても、本判決はこれらの事実を前提に秘密管理性を肯定していることからすれば、同様に単なるあてはめの錯誤の問題であり、故意は阻却されないことになりそうである。
そうすると、本判決は、客観的要素にあたるいかなる事実についての認識又は認容が欠けていたのかはっきりとしないところがある。②の点を重視するのであれば、これは秘密管理性の要件で判断すべきとも考えられよう。
3 不正の利益を得る目的
最決平成30.12.3刑集72巻6号569頁 [日産自動車]は、不正競争防止法21条1項3号の「不正の利益を得る目的」について、被告人が勤務先を退職し同業他社へ転職する直前に、データファイルを私物のハードディスクに複製した事案について、業務遂行その他正当な目的がなければ自己又は第三者のために利用することを目的としていたことが推認できるとしていた[10]。また、転職先に履歴書を送付する約20日前にデータを自己のパソコンに転送し、転職後同データを開示していた事案について21条1項3号の「不正の利益を図る目的」を認めたものもある(大阪地判平成27.11.13平成27(わ)280 [エディオン])。他方で、営業秘密保有者のための行為や公益実現等の正当な目的のある行為について、「不正の利益を得る目的」が否定されることは争いがない[11]。
本判決は、「不正の利益を得る目的」の結論部分において「…被告人両名が…C社に対しワイヤ整列装置の試作機の製作依頼をしたのは、Y社による正規の依頼としてではなかったと認められる。また、被告人両名は、C社から製作依頼を断られると、A社に対し同様の製作依頼をしており、A社に対する製作依頼もY社による正規の依頼としてではなかったと認められる」とし、「そうすると、仮に、本件実開示情報がY社の営業秘密に該当するという見解を採るのであれば、被告人両名がそれを用いてY社の了解なくワイヤ整列装置の試作機を製作しようとしたことになるから、被告人両名に、不正の利益を得る目的があったと認められる」とした。
もっとも、企業内での意見が一致しないこともあり得ることから、営業秘密保有者の正規の依頼ではない製作依頼であっても、営業秘密保有者の利益を図るために行うということも考えられる。それゆえ、営業秘密保有者の正規の依頼でないことや、営業秘密保有者の了解がないことをもって、直ちに「不正の利益を得る目的」を認定すべきではない[12]。本判決も結論部分では上記の説示をしているものの、X1が2月5日のメールで「ワイヤ関連の設備の仕様を決定、いま見積もり中です。これができれば、Y社とは関係なくMI素子の開発が可能となります。」などと記載したメールを送信していたこと、4月9日の本件打合せにおけるX1の発言として装置の発注者がY社以外になる可能性が言及されたこと、その後の打ち合わせではZ社を発注者として書類が作成されたこと、実際にもワイヤ整列装置がZ社に納品されていたことを認定しており、これらの事実を背景とする認定であったことに留意すべきと思われる。
第5 むすびにかえて
営業秘密の保護において民事責任が主であり、刑事罰は悪質な事案についての補完的な役割が期待されている[13]。刑事手続が当事者や関係者に与える影響は極めて大きく、退職後に蓄積した技能や情報の利用に過大な萎縮効果を与えかねないことからすれば、パブリック・ドメインに近い情報の利用が問題となる事案では、民事的な解決に委ねる方が妥当であるように思われる。
[1] これらの裁判例の詳細な検討として、山根崇邦「営業秘密侵害と差止請求」パテント75巻11号(別冊12号、2022)245-248頁
[2] 民事訴訟において、原告の保有する情報について営業秘密該当性を判断すべきことにつき、髙部眞規子『実務詳説 不正競争訴訟』(2020、金融財政事情研究会)207頁。
[3] この点を指摘するものとして、四條北斗 [判批] 大阪経大論集73巻4号(2022)119頁。
[4] 山根/前掲注1・245頁。
[5] 同旨を説くものとして、鎮目征樹=西貝吉晃=北條孝佳編『情報刑法Ⅰ サイバーセキュリティ関連犯罪』(2022、弘文堂)286頁(西貝吉晃=津田麻紀子執筆部分)。
[6] リバースエンジニアリングで情報の内容を特定するのに高額な費用と相当な期間を要する場合に非公知性は否定されないとした名古屋高判令和3.4.13令和2(う)162 [塗料の原料及び配合量]も参照。
[7] 差止請求を否定し、節約分の賠償のみを可能とするものとして、茶園成樹「営業秘密の民事上の保護」日本工業所有権法学会年報28号(2005)42頁。英国法を参考に日本でも営業秘密侵害の救済の柔軟化を志向するものとして、潮海久雄「行為規整の変容と侵害・救済の柔軟化の必要性―営業秘密の侵害行為の多様性の視点から」Law & Technology別冊6号『知的財産紛争の最前線』(2020)73頁。
[8] 例えば、井田良『講座刑法学・総論』(第2版、2018、有斐閣)169頁など。
[9] 同判決については同志社大学山根崇邦教授からご教示を頂いた。
[10] 同最高裁判決は事例判決であり「不正の利益を得る目的」に関する一般論を示すものではないことにつき、久禮博一 [判解] ジュリスト1535号(2019)99頁。
[11] 中原裕彦「『不正競争防止法の一部を改正する法律』の概要」Law & Technology 44号(2009)45-47頁、玉井克哉「営業秘密侵害罪における図利加害の目的」警察学論集68巻12号(2015)63頁、山根崇邦「従業員によるデータの持ち出しと営業秘密領得罪―日産自動車事件最高裁判決を契機として―」Law & Technology 85号(2019)10頁。
[12] なお、本判決は、被告人X2が退職前にZ社から200万円を受け取ったことも根拠とするが、問題となった情報の開示との関係は薄いように思われる。
[13] 田村善之「営業秘密の秘密管理性要件に関する裁判例の変遷とその当否(その2)(完)―主観的認識vs.『客観的』管理―」知財管理64巻6号(2014)791頁。平成18年改正以前のものであるが、島田聡一郎「不正競争防止法における営業秘密侵害罪の意義、機能、課題」Law & Technology 30号(2006)20-21頁。