営業秘密官民フォーラムメールマガジン掲載コラム 第76回
農業分野における営業秘密の保護ガイドライン
弁護士知財ネット
弁護士 小野淳也
PDF版ダウンロード:[営業秘密官民フォーラムメールマガジン掲載コラム] 第76回 農業分野における営業秘密の保護ガイドライン
第1 はじめに
今夏に改正された食料・農業・農村基本法では、「国は、農産物の付加価値の向上及び創出を図るため、高い品質を有する品種の導入の促進及び農産物を活用した新たな事業の創出の促進、植物の新品種、家畜の遺伝資源、地理的表示(特定農林水産物等の名称の保護に関する法律(平成二十六年法律第八十四号)第二条第三項に規定する地理的表示をいう。)、農業生産に関する有用な技術及び営業上の情報その他の知的財産の保護及び活用の推進その他必要な施策を講ずるものとする」(31条)(下線は執筆者(以下同じ))との定めが設けられるなど、農産物の付加価値の向上及び創出を図るにあたり、営業秘密を含む知的財産の保護及び活用への注目が一層集まっています。
営業秘密の定義は、農業分野においても変わるところはなく、ある情報が営業秘密として保護されるためには、①秘密管理性、②有用性、③非公知性という3つの要件を満たすことが必要になります(不正競争防止法2条6項)。また、「営業秘密管理指針」などで述べられていることは、一般論としては、農業分野においても妥当するものと考えられます。
一方で、農業分野において適切な営業秘密の保護及び活用を図るためには、農業分野特有の事情や慣行を踏まえた知財戦略を策定する必要があるものと考えられます。
本コラムでは、農業分野に関する議論の一端を紹介するため、令和4年3月に策定された「農業分野における営業秘密の保護ガイドライン」[1](以下「本ガイドライン」といいます。)につきまして、執筆者が特に重要だと考えるポイントを簡単に紹介いたします。本ガイドラインには事例集や秘密保持契約書のひな形も付属しており、実務に役立つ内容になっていますので、農業分野の営業秘密を検討される際には、ぜひ原文もご参照ください。
なお、農業分野の営業秘密を検討される際には、本ガイドラインの他にも、農業分野におけるデータの利活用に関する「農業分野におけるAI・データに関する契約ガイドライン」[2](令和2年3月)も参考になります。水産分野の営業秘密を検討される際には、「水産分野における優良系統の保護等に関するガイドライン[3]」(令和5年3月)及び「養殖業における営業秘密の保護ガイドライン[4]」(令和5年3月)が参考になります。また、営業秘密とは異なりますが、畜産分野の知財戦略策定にあたっては、和牛の人工授精用精液・受精卵等に関する「家畜遺伝資源に係る不正競争の防止に関する法律」が参考になると思われます。
第2 農業分野の営業秘密の例
そもそもどのような情報が農業分野の営業秘密として保護され得るのでしょうか。
農業分野において営業秘密として保護され得る技術・ノウハウ等は多岐に渡りますが、本ガイドラインには、工程ごとに以下の技術・ノウハウ等が例示されています(本ガイドライン7頁ないし9頁)。こうして並べて見てみると、農業分野の奥深さを実感できるのではないでしょうか。
【耕種分野】
工程 | 保護され得る技術・ノウハウ等 |
種苗の生産・増殖 | 種苗の保管・催芽・育苗・種苗ほ場管理・接ぎ木・挿し木の方法、F1品種[5]の親系統に関する情報、育種母本に関する情報 |
土作り・施肥 | 堆肥の生産技術、肥料の配合割合、施肥時期の判断要素、施肥方法、過去に蓄積した施肥と生育の相関データ |
播種・植付け | 播種時期の判断要素、播種方法、多品種の組合せ方法(栽培計画) |
防除 | 防除時期の判断要素、薬剤散布方法 過去に蓄積した防除と生育の相関データ |
物理的な草樹勢・収 穫物品質管理 | 摘葉、摘心、摘芽、断根、水分管理、誘引、整枝、剪定、摘花・摘果・摘粒・摘房に係る時期とその方法 |
収穫・調製 | 収穫時期の判断要素、収穫方法、水分管理・予冷等の調製方法 |
その他栽培管理全般 | かん水方法、環境制御方法(例:施設栽培等における水分量・二酸化炭素量・日光量・夜間照明量・養液分量の制御)、作業員の配置 計画・労務管理、人工授粉、ホルモン剤処理、作柄の見回り、過去に蓄積した栽培管理と生育の相関データ |
選別・包装 | 選別方法、選果ラインの設計、パッキング方法、充填方法 |
経営管理 | 財務情報、顧客情報、販売実績 |
【畜産分野】
工程 | 保護され得る技術・ノウハウ等 |
繁殖 | 家畜人工授精用精液の採取・処理・注入技術、家畜受精卵の採取・ 処理・移植技術、血統による交配の組合せ |
家畜・家きんの導入 | 健康状態の推察方法、過去に蓄積した導入家畜・家きんの品種・血統と飼養成績の相関データ |
飼料生産・調製・給 与 | 飼料の生産・調製技術、飼料の配合割合、飼料の給与量と種類の切り替え時期の判断要素、飼料給与方法、過去に蓄積した飼料(給与量、種類)と飼養成績の相関データ |
衛生管理・疾病対策 | 農場の衛生管理プログラム(消毒薬の選択、消毒薬の濃度・量、品質管理の手法等)、過去に蓄積した衛生管理・疾病対策と飼養成績の相関データ、鶏卵の衛生管理プログラム(GPセンター衛生管理 マニュアル等)、ワクチン・プログラム |
その他飼養管理全般 | 給水方法、飼養環境制御方法(例:畜舎・鶏舎内の温度・湿度・風量・照明量)、作業員の配置計画、労務管理、家畜・家きん等の見回り、過去に蓄積した飼養管理と飼養成績の相関データ、敷料の材料・床の材質 |
排せつ物処理 | 堆肥化・汚水処理・エネルギー化の方法 |
出荷 | 出荷時期の判断要素、出荷前の管理方法、 鶏卵のトレース情報の把握・管理方法 |
経営管理 | 財務情報、顧客情報、販売実績 |
第3 農業分野をめぐる環境の変化
なぜ今農業分野の営業秘密が重要なのでしょうか。本ガイドラインの記述を手がかりに、近年の環境の変化を考えていきたいと思います。
1 これまでの我が国農業分野における営業秘密
本ガイドラインでは、「これまで、我が国の農業分野では、ノウハウや新品種は共有するのが当たり前であり、特定の生産者等がこれを独占すべきものではないとの考え方が広く根付いていたために、生産者の栽培・飼養技術やその他のノウハウ、新品種等の持つ知的財産としての価値に対する認識が乏しく、無制限に利用・提供することが選択され、知的財産として管理を行おうとすることが、逆に囲い込みとして非難される状況」があったとの指摘があります(本ガイドライン5頁)。和の精神をもって農業を実践する姿勢には共感するところもありますが、当該指摘も踏まえると、一般論として、これまでの我が国の農業分野では、営業秘密の保護及び活用という発想は弱かったと言えそうです。
また、本ガイドラインでは、農業分野において、不正競争防止法の営業秘密の枠組みがほぼ活用されてこなかった背景として、①農業分野では、植物の栽培やその他のノウハウの実践等が人目にさらされやすい屋外で行われていること、②自然を相手にしていること、③我が国に存在する農業経営体の95%超が個人経営であるなど小規模な生産者が多い一方で、農業共同組合の生産部会のような法人格を持たないグループに属していることが多いことといった理由を挙げています(本ガイドライン6頁及び7頁)。また、本ガイドラインのダイジェスト版[6]では、④技能実習生や見学者、指導員など、従業員以外に生産現場へ立ち入る関係者がいることを、農業分野の特殊性として指摘しています。①③④の指摘は秘密管理性・非公知性を維持するハードルの高さを、②の指摘はマニュアル作成の難しさ(暗黙知の形式知化の難しさ)を指摘しているものと解されます。
我が国農業分野において営業秘密の保護及び活用という発想が弱かったこと、また、他分野(特に工業分野)にはない難しさがあったことから、農業分野においては、営業秘密の枠組みが活用されにくい傾向にあったのではないかと考えられます。
2 我が国農業を巡る情勢の変化
情勢の変化を示唆する指摘として、「経済のグローバル化等により、現在の農業を巡る情勢は大きく変わっており、我が国の優れた技術・ノウハウや品種等の知的財産が海外に流出すれば、我が国の知的財産にただ乗り(フリーライド)され、我が国の知的財産の独自性や優位性が希釈化し、ひいては我が国の農業の競争力の低下など、農業分野全体に損害が生じることが懸念されている」(本ガイドライン5頁)との指摘があります。情勢の変化の一例として、例えば、国内の人口の減少等を踏まえ、海外への輸出を図ることも求められますので(食料・農業・農村基本法2条4項参照)、海外との競争を見据えた営業秘密管理の必要性は高まっているといえます。
また、「社会全体におけるデジタル化及びデータ活用の進展に伴い、農業分野でも、AIやデータを活用したスマート農業の推進により、これまで熟練生産者の「暗黙知」にとどまっていたノウハウを「形式知」化したソフトウェア等の研究・開発が進められている」(本ガイドライン5頁)との指摘のとおり、スマート農業の推進により、農業分野における勘や経験などのノウハウが「形式知」化されることも予測されるところです。このような「形式知」化されたノウハウを利害関係者でどのように保護・活用するかも、営業秘密に関する重要な論点といえます。
ご紹介したものはごく一部ですが、農業分野において営業秘密を適切に保護・活用する必要性は高まっており、我が国農産物の付加価値の向上及び創出に向けて、更なる議論の深化が期待されるところです。
第4 営業秘密の各要件について
本ガイドラインでは、経済産業省の定める営業秘密管理指針が述べるところが一般論として農業分野にも当てはまることを前提に、農業分野特有の事情や慣行を踏まえた、技術・ノウハウ等の保護のあり方を検討しています(本ガイドライン14頁及び15頁)。以下、全体のごく一部ですが、執筆者が興味深いと感じた指摘をいくつか厳選の上、紹介いたします。
1 秘密管理性(本ガイドライン15頁ないし32頁)
・「管理指針も指摘するとおり、秘密管理性の程度として鉄壁の秘密管理が求められるものではない。特に農業分野においては、小規模な生産者が、各自様々な工夫をして技術・ノウハウ等を保有していることや、技術・ノウハウ等やこれが化体した物件が屋外に存在せざるを得ないことも想定される。屋外において、常時監視できるように監視カメラを設置したり、広い範囲を施錠管理したりといったことは、多大な労力と費用を要するのであって、営業秘密として保護されるために、秘密管理措置として、個別具体の状況・事情を考慮せず、これらの措置を例外なく必須のものとして要求することは現実的ではない。秘密管理性の趣旨に立ち返り、従業員等の認識可能性を確保するために、農業分野の特殊性を踏まえてどのような措置が有効であるかを検討すべきである」(本ガイドライン16頁)。
・「生産者の多くを占める従業員が数人以下の場合(家族のみの場合を含む)には、従業員間の意思疎通が図りやすい一方、技術・ノウハウ等に触れることができる者を限定してしまうと、ただでさえ少ない人数をやりくりしながら日々作業を行っている現場において、業務の効率を著しく害してしまうおそれがある。そこで、こういった小規模の生産者においては、技術・ノウハウ等を従業員・家族間で共有することを前提として、その内容を従業員・家族以外には秘密にすべきという認識を、しっかりと従業員・家族間で共有することこそが、秘密管理措置として重要である」(本ガイドライン16頁及び17頁)。
・「一定数(例えば数十人規模)の従業員を雇用する生産者になると、全ての従業員の間で綿密な意思疎通を図ることが困難な場合も生じてくる。このような場合には、技術・ノウハウ等に触れることができる従業員を制限し、その限られた従業員の間で当該技術・ノウハウ等が秘密であるという認識を高めたり、書面で秘密情報の管理のルールを定め、従業員間の秘密情報の管理意識を醸成するなど、経営の規模に応じた秘密管理措置を施すべきである」(本ガイドライン17頁)。
・「農業分野のもう1つの特殊性として、農協における生産部会が設置され、各生産者が生産技術を持ち寄ったり、都道府県の普及指導員や農協の営農指導員が各生産者を巡回して技術指導を行うといったことが行われている。このような場面では、一定の人的範囲で生産技術を共有することを目的としているため、共有する技術・ノウハウ等と、各生産者自身に留める技術・ノウハウ等とをしっかりと区別しておく必要がある。また、技術・ノウハウ等を共有する場合であっても、共有する人的範囲を定め、その範囲に応じた適切な管理措置をとることが重要となる。」(本ガイドライン17頁)
・「認識可能性を確保すべき「従業員等」とは、「営業秘密たる情報の取得、使用又は開示を行おうとする従業員や取引相手先」と定義されている。秘密管理措置は、このような従業員等との関係で要求されているのであって、秘密情報を窃取しようとするような侵入者等との関係で、特段の秘密管理措置がとられていることまでの必要はない。この点は、農業分野、特に屋外に存在する技術・ノウハウ等との関係において、非常に重要である。屋内と異なり、屋外では外部からの侵入者等を物理的に排除することは困難である。ほ場に施錠することは通常には行われていないし、ビニールハウスであれば、施錠することは可能であるとしても、建物のような堅牢性はなく、ビニールを破って侵入することは容易にできてしまう。そのため、例えばF1品種の親系統や品種登録出願前の開発中の品種などを栽培している区画に、外部からの侵入を防ぐ目的で「立入禁止」などと記載した立看板を設置してしまうと、却って当該区画で重要な品種が生育されていることが侵入者等に察知され、侵入を招く結果となるおそれがある」(本ガイドライン18頁及び19頁)。
2 有用性(本ガイドライン33頁及び34頁)
・「農業分野の技術・ノウハウ等の中には、自然環境等の影響を受けて、必ずしも再現性が高くないものも含まれる。しかし、上述の有用性要件の趣旨に照らせば、高い再現性を有する技術・ノウハウ等のみが保護の対象となると解するのは妥当ではない。再現性が全くないようなものは別として、低い確率であっても再現性が認められるのであれば、有用性要件は否定されないと解すべきであろう」(本ガイドライン33頁)。
3 非公知性(本ガイドライン34頁ないし36頁)
・「管理指針で説明されているとおり、非公知とは、当該営業秘密が一般的に知られた状態になっていない状態、又は容易に知ることができない状態を意味する。F1品種の親系統などは、屋外で栽培されているとしても、外部から見ただけでは品種を特定することができず、またそれ自体市場に流通しているものではないため、これを適法に入手して分析することは困難である。したがって、このような技術・ノウハウ等については、屋外に存在するとしても、その内容を容易に知ることができない状態が保持されており、それによって非公知性が失われるものではない。また、F1の品種登録に際しても、親系統の情報が明確に示されていなければ、非公知性は失われない。また、屋外のほ場で実施されている水分の管理方法なども、その内容を把握するためには、不相当な長時間にわたってほ場を観察し続ける必要があるから、やはりその内容を容易に知ることができない状態が保持されており、未だ非公知であると解される」(本ガイドライン35頁)。
第5 結語
本コラムを通じて、少しでも農業分野における営業秘密の保護に関心を持っていただければ幸甚です。
農業分野における知的財産にご興味を持っていただけた方は、インターネットでダウンロード可能な「次世代の人たちに読んで欲しい 農業分野の知的財産保護・活用のためのテキスト[7]」も是非ご一読ください。
[1] https://pvp-conso.org/wp-content/uploads/2023/09/5e8cde99a6eef1663413e62fd5a44631.pdf
[2] https://www.maff.go.jp/j/kanbo/tizai/brand/keiyaku.html
[3] https://www.jfa.maff.go.jp/j/saibai/yousyoku/attach/pdf/yuuryou-61.pdf
[4] https://www.jfa.maff.go.jp/j/saibai/yousyoku/attach/pdf/yuuryou-62.pdf
[5] 交配種(F1品種)については、第29回のコラムをご覧ください。
[6] https://pvp-conso.org/wp-content/uploads/2023/09/d9686459c61220a29b3c0395975cd4c4.pdf
[7] https://pvp-conso.org/wp-content/uploads/2023/08/AgriIP_Text_All.pdf